スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

在家には財施、僧侶には法施が辛い

僧侶は世俗を捨てて仏道に入ったので

金銭に対する執着を捨てて法施をしなければならない。

間違えて伝えれば切腹ものの責任がある。

ところが、もともと聞く気が無い連中に、

自分が大切に思っている法を説くのだから辛い。

いい加減に聞いて、居眠りするわ、聞き間違えていい加減なこと言いふらすわ

謗るわ、やりたい放題。

山の中で座禅しているほうが楽。

「こんな連中放っておいて、自分だけ悟りを求めよう」というのが小乗。

また知識の言葉を聞いても、自分の法が捨てられないから

知識の言葉通りに伝えるのが辛い。

「もっと、ああ言えばいいのに。こういう話をすればいいのに」と

心で謗る。

在家は、出家するような意欲もないが

仏縁に恵まれた人は「聞いてみたい」という薄い気持ちがある。

「薄い」というのは、在家にとって一番大事なのは金だから。

「ただなら聞くが、金がかかるなら聞かない」程度の気持ちしかない。


お釈迦さまはちゃんと見抜いて

「僧侶は法施せよ、在家は財施せよ」と教えて行かれた。

「ただで救う」という阿弥陀仏の本願だが

命と引き換えでないと聞き開けない。

ましてや自分の法に執着したり、金を惜しんでいる程度で

聞ける法ではない。

何十年聞いたとか、

家1軒立てる程度の金で「仏法に金出した」とかいうのは

身の程知らず。

自分の作った法に縛られて、あるいは

金を握ったまま堕ちてゆく。


あわれ、あわれ。

南無阿弥陀仏




スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。