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二十願の願人と行人の違い

おほよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもつて
おのれが善根とするがゆゑに、(化土巻)


二十願の願人は、なぜ自分の称えた念仏を「自分の善根」とするのか。

信罪福心があるからです。

「信罪福心」とは因果の道理を信じて

「善をすればよい結果が来る。自分のした善根の結果は自分に来る」と信じている心。

これは深信因果の十九願の心相。

十九願を経なければ、二十願には入れないようになっています。

「二十願に入れとは仰っているが、十九願に入れとは言われてない」というのは

「風呂に入って寝ろ」と言ったら「風呂の中で寝ている」のと同じ。

無信単称の念仏ですから、外道です。

「諸善をせずに念仏だけ称えておれば二十願の行人」というのはこの類。


二十願の願人はいても行人はいません。


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No title

>「二十願に入れとは仰っているが、十九願に入れとは言われてない」というのは

>「風呂に入って寝ろ」と言ったら「風呂の中で寝ている」のと同じ。

これが詭弁と言うもの。

「二十願に入れとは仰っているが、十九願に入れとは言われてない」を風呂に例えるなら、
「風呂に入れとは仰っているが、サウナに入れとは言われてない」ですね。

勧められてもいない19願に誰が入ろうと思うのか?

No title

親鸞聖人は正像末和讃で

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智疑惑のつみにより
 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ
 年歳劫数をふるととく

転輪皇の王子の
 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ
 牢獄にいるがごとくなり

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

仏智不思議をうたがひて
 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば
 大慈大悲はえざりけり

本願疑惑の行者には
 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ
 或堕宮胎とすてらるる

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

七宝の宮殿にうまれては
 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ
 有情利益はさらになし

辺地七宝の宮殿に
 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて
 もろもろの厄をうくるなり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

如来慈氏にのたまはく
 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて
 胎生辺地にとどまれり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

自力の心をむねとして
 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳
 三宝の慈悲にはなれたり

仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ


と何度も何度も何度も何度も何度も、繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、20願の行者は化土往生しかできないと誡められていますが、存在しない人にここまでエネルギーを使われるとは、親鸞聖人は余程閑だったのですね。

No title

行の難易度からすると

聖道門>19願>20願

となる訳ですね。
聖道門は難しいから19願にしよう、19願も難しいから20願にしよう、ということです。

しかしこれは行ができる人のこと。行のできない悪人は最初から念仏を選択するしかない。

それが観経下品下生の

「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。」

下品下生のどこに、善が勧められているのですか?

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