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「弥陀の十九願」⊃「聖道門」は当然

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、
半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、
実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、
虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願と名づく。(化土巻)

「親鸞聖人が阿弥陀仏の19願を勧められた御文はない」という論難について。

これも昔書きましたが、

十九願は「九十五種の邪道を出でて」仏道に入った人に説かれた教えです。

外道は問題外。

「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要
門といふ、これを仮門となづけたり。」(一念多念証文)

総じていえば、仏教全体が要門。

別していえば弥陀の十九願。

浄土の要門⊃聖道門ということ。



「十九願は聖道門のためだけ」という論難もこの関係を間違えている。


「500年程度の在世正法の時機のためだけに説かれた聖道門」と

「三世十方を貫く弥陀の本願」の関係が

「弥陀の十九願」⊃「聖道門」になるのは当然。

「要門」に入っている人に「入れ」という必要はない。


聖道門と浄土門の違いは真実の機を教えられているかどうかです。

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No title

mixiでの法論で、最初から問題になっていた根拠が、『教行信証』化土巻・要門釈の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

でした。
T氏は後半部分の「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」だけを取り出して、釈尊も阿弥陀仏も「群生海」「あまねく諸有海」という全人類に対して定散二善、19願を説かれたと言ってきました。
しかしそれは断章取義です。前半を無視しているのです。
前半部分を一言で言えば、聖道門の修行に行き詰った人のことです。
この前半部分を受けて、「ここをもって」ですから、定散二善、19願は誰の為に説かれたかが判るのです。

今回の『なぜ生きる2』にもこのお言葉が載っています。ところがその訳を敢えてしていません。ただ

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。
 以下はその文証である。

として、上記の御文を載せています。
誤魔化しもここまでくると、尊敬に値します。

仏教学も真宗学も学んでいないT氏のために、なじみのない「半満・権実の法門」について、学問的に解説をしておきます。

「半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』にこのようにあります。子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、と。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
「権実」とは、権教と実教のことです。大乗教の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。

「半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

 総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

「権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

これだけ判れば簡単で、外道から聖道門に入ったといっても、さとりを開いた人は甚だ少なく、逆にさとりが開けずに断念する人が甚だ多い、ということです。そういう人のために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、となります。

結局のところ、親鸞聖人は、19願を聖道門から浄土門への橋渡しをする教えと解釈なされた訳です。

No title

親鸞聖人が19願を聖道門を断念した人のための願として解釈なされていたことが、判ります。
それを更に裏付ける根拠は、まだいくつもあります。

mixiでの法論で出したのが、『尊号真像銘文』の

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。18願の「唯除五逆誹謗正法」についての説明ですが、「唯除」とあるから、五逆罪・謗法罪の者も「十方衆生」から漏れていない、ということを親鸞聖人が仰っています。

ということは、「唯除五逆誹謗正法」のない19願の「十方衆生」には、漏れている者があるということです。簡単な論理ですが、こんなことさえT氏は知らなかったのです。

もっと直接的に仰ったのが、『浄土和讃』の

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

です。

『なぜ生きる2』にもこれは載っていますが、その意訳がまた恣意的な誤魔化しです。

阿弥陀仏が十九の願に勧める善を、釈迦は『観無量寿経』一巻に定善・散善の二つで解き明かされている。

最後の行の「定散諸機をすすめけり」が無いのです。

ただし脚中には、

*定散諸機 弥陀の救いを求めて、定善や散善を実行する人々。

とありますので、正しい意味をT氏も判っているのですが、意訳には載せていません。
この和讃を載せた理由はもちろんあれです。この前に

弥陀は十方衆生(すべての人)を、要門・仮門より誘導して、無碍の一道・絶対の幸福に救い摂ってくださる

などとありますので、「定散諸機をすすめけり」を十方衆生に勧められた、と読者に誤解させる狙いがあります。

実にT氏らしいですが、深く考えることを禁止された会員は、簡単に騙されてしまうのです。

「十方衆生」という言葉だけで、すべての人に直接関係があるとか考えること自体、浄土門にも聖道門にもありません。「十方衆生」あるいは「一切衆生」と同義語は、聖道経典にもたくさんあります。それら聖道経典もすべての人と関係がある、となったなら、早速読んで実践しなければならなくなります。
もちろん、T氏は聖道経典のことなど全く知りませんから、愚かな説明をしている訳です。

「十方衆生」とある18・19・20願のことを「摂生の願」とT氏は言っていますが、そんなことは聖教上にも、真宗学にもありません。かといってT氏が創作する程の知恵もありません。皆さん御想像の通り、大沼法竜師の著書からのパクリです。

しかし、大沼師しか言っていない、大沼師独自の用語を、この本にまで学者ぶって載せる神経が判りません。

No title

  大無量寿経19願の十方衆生
平等覚経 諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経 八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文 「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄 諸行の人
浄土和讃 定散諸機
高僧和讃 定散諸機


親鸞聖人が、19願の対機は、聖道門を断念した人、定散二善のできる善人で、逆謗は除かれていると仰っているのですが何か?
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