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「お念仏ひとつ」と簡単に言うけれど

「お念仏が尊い」と口では言っても

若一日若七日、一心不乱に念仏している人など見たことがない。

二十願の念仏というのは、仕事をしながら称えられるものではないし

諸善をしないで念仏していれば二十願の念仏になるのでもない。


「若一日若七日、一心不乱」とはどんなことか。

二十願の行人とはどんな人か。


昔話をひとつ。


ある所で、僧侶が説法していた。

「仏道修行のできない末代の凡夫は、死ねば地獄に行くしかない。

そういう悪人を目当てに必ず救うというお約束をしてくだされたのが

阿弥陀という仏様である。

一心に『南無阿弥陀仏』と称えながら、西に向かうより

後生の助かる道はない。」

たまたま通りがかった泥棒悪党の一団。

その中の一人の男が、突然、持ち物をすべてそこに放り出し

『南無阿弥陀仏』と称えながら、西の方へ歩き出した。

泥棒仲間が「どうしたんだ。気が狂ったのか。」

大声で制止してもかまわずに歩き続ける。

さんざん騒いで止めさせようとしても称名もやめないし、あゆみを止めない。

しまいに仲間はあきらめて、どこかに行ってしまった。

男は一人になっても、昼も夜も歩き続けた。

村々を過ぎ、山を越え、川を渡り、飲食を忘れて何日も歩くと海に出た。

海は渡れない

今度は、海岸に座り込んで称名を続けた。

夜も昼も。雨の日も、風の日も。


何日かたった晴れの日、男は動かなくなって、称名も絶えていた。

口からは蓮華の花が咲いていたそうな。

南無阿弥陀仏

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No title

『阿弥陀経』に「一心不乱」とあるから、相当にレベルの高い念仏だとの勘違いでしょうが、親鸞聖人は『教行信証』化土巻にて、

『小本』(小経)には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。

(現代語訳)

『阿弥陀経』には「一心」と説かれている。念仏以外の他の行がまじらないから、一といわれるのである。

と教えられている通り、念仏以外の行である、雑行と助業が混じらないことを、「一心」というのです。もちろん、雑行を捨てた念仏です。

また、20願の念仏は相当の数を称えなければ成立しないというのも間違いで、真門釈で『法事讃』を引かれて、

またいはく、「種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるは無し。上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」と。

(現代語訳)

また次のようにいわれている(法事讃)。
 「仏のさまざまな教えは、みな迷いを離れることのできるものであるが、念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。生涯をかけて念仏するものから少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる。仏がたは次々に世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」

と説明しておられます。人間の命はいつ終わるかもしれないのですから、たとえ「十念・三念・五念」という少ない念仏でももちろん20願の行者です。

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