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五正行の開合

初めの正行とは、これにつきて開合の二の義あり。初めの開を五種となし、

後の合を二種となす。(選択集)



「一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、

五には讃歎供養正行」

これを並べて修する者は19願要門の願人であり、雑修の人。

19願がいらないなら、正行も雑行も雑修もありません。



正業と助業の区別がついて「称名念仏ひとつ」となり、

一心不乱に若一日乃至若七日の称名念仏を称えている人なら二十願の願人だが

そんな人は雨夜に星で

ほとんどの人は「お念仏すれば悪人でもお助けくださるそうな」と

「随縁の雑善と同じ」念仏で留まっている。

そんな念仏では助かりませんよ。

「お念仏ひとつ」というなら身命投げ打って、一心不乱に称えることですね。

知らされることがありますよ。

お念仏を称えるでもない、善行もしないでは

「どうしようもない」でしょうね。



まづ「随縁の雑善」といふは、自力の行をさすなり。
真実に仏法につきて、領解もあり、信心もおこることはなくして、
わがしたしきものの律僧にてあれば、戒は世にたふときことなりといひ、
あるいは、今生のいのりのためにも、真言をせさすれば結縁もむなしからず、
真言たふとしなどいふ体に、便宜にひかれて縁にしたがひて修する善なるがゆゑに、
随縁の雑善ときらはるるなり。
この位ならば、たとひ念仏の行なりとも、
自力の念仏は随縁の雑善にひとしかるべきか。(安心決定鈔)
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No title

19願にも、自力の念仏があります。

『三経往生文類』には

観経往生といふは、修諸功徳の願により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。

(現代語訳)

「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、 さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。そこで『観無量寿経』には、定善・散善、三福の行や九品のさまざまな善、あるいは自力の念仏を説いて、九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。

とあるように、『観無量寿経』の表向きは、九品中の上品上生から中品下生までは三福を勧められ、下品上生から下品下生までは自力の念仏が勧められているということです。
全人類は極重の悪人である下品下生ということなら、当然勧めるべきは『観無量寿経』の自力の念仏でなければなりませんが、おかしなことに、定散二善、というよりも布施の行を勧めています。

なぜ自力の念仏を勧めないのか?

いうまでもありません。金集め、人集めが目的で、会員に19願の道を進ませようという意図もないからです。

自力念仏も知らずに三願転入を語るとか、お笑いとしか言いようがありません。
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