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なぜ御文章が読まれなくなったのか

暁烏 敏などは「御文章の領解は理解できない」と公言し

歎異抄の「ただ念仏して」を得手に読んで喜んでいた。

今の僧侶のほとんどはこの流れを受けているのだから

御文章が受け入れられるわけがない。

僧侶には、一帖目一通から都合が悪い。

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正
行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころな
り。「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心
になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに
各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあ
ひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。


「これはどういう意味なんですか」
「実際は大きな喜びなんてないんだよ。歎異抄の九章を読んで見なさい。
唯円様でさえ、踊躍歓喜の心はないと仰っているじゃないか。
煩悩があるから喜ばれんのだよ」
「蓮如上人は『よろこびは身にもうれしさがあまる』と仰っていますが」
「それは法の尊さを仰ったので『実際はそんな喜びは起こらない』のだよ」
「....」

坊主は言いくるめたつもりだろうが

文盲が多い時代ならいざしらず、少し教育を受けた者なら納得するわけがない。

坊主自身も納得してないことを門徒に言っているのだから

なるべく法讃嘆は避けるようになる。


門徒の方は「聞いたって仕方が無い。わからないもの読んだって仕方ない」と

朝晩のお勤めもしなくなっていった。

「『御文章はウソを書いてある』なんて言ったことはない」というが

「『御文章は本当だった。ウソではなかった』とも言ってないのが寺。

お勤めも、御文章の拝読もすすめてはいない。


結局は、祖師聖人や蓮師と一味ではないから御聖教も有り難くない。

そんな寺の話を聞くよりは、真宗聖典を繰り返し書写でもする方が

よろしいでしょう。

「どうしたら信心決定できるんですか」と聞いた人に

「御文章を千回読め」と言った妙好人がいましたが

同じ心でしょう。

朝晩80通を繰り読みしていますが

私はまだ300回ぐらいしか拝読していない計算になります。

ありがたいですね。


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