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難しい話がお好きなようで

古歌にいはく、
  うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな
 「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、
むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかり
おもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心
になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに
各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあ
ひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。


私は、一帖一通を拝読して

「蓮如上人の言われたとおりだったなあ」と思うのですが

あなたの場合は違うということでよろしいのではないですか。

懺悔も歓喜もわからないのだから、仕方ないでしょ。


二河譬も通ったことがないからわからないんですよ。

御文をよく拝読されることですね。

法鏡ですから。




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一応のご回答をいただいたものとします

1:「管理人さんは「『歎異抄』第9条の唯円房は宗祖が諭されるまでは自力念仏の行者だった」とみておられるのでしょうか。」

管理人さんの答え:

>お念仏となえていても慶べないのは「闇が破れていないから」です。


2:「管理人さんの法悦をもっと詳しくお聞かせいただけませんか。」

管理人さんの答え:

>信心決定の体験は「火に触った『よりも』ハッキリする」というのは
>これ以上譬えようがないから、そういう表現をするだけです。

>「いまこそあきらかにしられたり」と聞かせていただいて
>そのとおりだったなあー、とうれしさにおどった

>はっきり信心獲たから喜ばずにおれない。

>恒河の底に沈んでいた私が、弥陀の光明に照らされて
>浮かび上がっては沈みを繰り返していた億劫からの昔。
>この度、摂取の光明の網の中におさめとられたが
>本性は川底にいた時とすこしも変わらない煩悩の固まり。
>この世のあるいはあの世のどんな悪人よりも
>諸仏にも嫌われ捨てられた極悪人を
>本師本仏の弥陀一仏が「そのまま来い」と呼んで下さったときの
>喜びは「大慶喜」以外のなにものでもありません。

3:「管理人さんご自身で称名念仏、即ち口称の<南無阿弥陀仏>について語っていただけますか。」

管理人さんの答え:

>本願寺のみなさんのお念仏がおろそかなのを心配しております。

----------

>懺悔も歓喜もわからないのだから、仕方ないでしょ。

いいえ、わかりますよ。だからこそ私は言っているのです。

「私の場合は「うれしさにおど」るというよりも、「かたじけない、申し訳ないことであるな」というふうな静かな心もちであると言った方がより近いと思います。」

私の「静かな心もち」というのは、確かに「踊躍歓喜」にはほど遠い。しかしそれは煩悩のせいであると宗祖はお示しになり、そして「救われてもなお盛んな煩悩といかに向き合うのか」という問いに、『歎異抄』第9条の唯円房に宗祖はこう諭されます。

よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。

先哲はこうおっしゃられたそうです。

「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」

その通りだと思います。


>二河譬も通ったことがないからわからないんですよ。

では(もう何度も催促しているのですが)管理人さんのおっしゃる

「二河譬の譬喩段は観経の顕説」
「『白道』の白は自力小善の路である」
「無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡り」
「獲信は二河の中、白道上のこと」

というご主張に合致する「二河譬」の逐語訳を示していただけますか。

No title

これって、異安心ってことでOK?

顕徹編『獲信の記録』(昭和24年発行)

手に持っていた『華光誌』を苦し紛れに放りつけた。トタンにこの苦しみは、スーッとはがれた様に引いて行った。ボーッとなって暫くは考える力もない。正気の沙汰ではない。夢か、うつつかの判断もつきかねていると、タカモリさん一家が帰って来られた。
挨拶も忘れて、今あった不思議な出来事を、ありのまま顕徹君に語った。一同は我が事の様に喜んでくださる。だが私自身は、何が何だかさっぱり分からぬ。本当だろうか。これが獲信したというものであろうか?
まだまだ疑いの晴れぬまま、種々ご馳走に預かる。こんな、うまく食事したことが近頃にあったろうか。やがて、顕徹君の話に薄紙を、はぐ如く、光明は輝きを増し、歓喜は胸に張り裂けるのであった。
「如来を求めて、いくら追っかけても、人間は到底追いつけるものではない。また自分でとらえられる位なら、他力信心なんか必要もない。弥陀は十万億土の彼方におられるものだと思っていられたか知らぬが、何のことは無い、アンタの腹の中にいて、しかもこの宇宙を包んでいる絶対者なんだ。その懐に入っていながら、それを追っかけ、とらえようなんて、問題ではない。追いつけないことが分かって初めて振り返ってみると、何のことは無い。総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれていながら、何を悩みますかね?」
不思議だ!そう聞けば悩もうにも悩む種が無いではないか。そして顕徹君の語るどの話も皆、素直に肯定出来るからおかしい。弥陀が智慧や才覚で分からんでもよいのだ。このままでよいんだなあ。ああ、このままだった、このままだった。

No title

顕徹自身の獲信の手記

名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思いながら、なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせていただきました。ところがいかに説教を聞いても「うまく言うない」「フフン」とあざける内心に何だかいやになり、或る晩もあまりに自分の立場に苦しみ、ひとつ徹底的に私の理解を促したいと、布教使さんのもとに行き、自分の疑っていたことを問いただしてみたが、これも明解を得ず、満足せずに悲しく淋しい闇夜を帰ったこともありました。
何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
南無阿弥陀仏々々々々々々
これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏
今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせていただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。
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