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喜べない言い訳

>つまり管理人さんのおっしゃる「はっきり信心獲たから喜ばずにおれない。」とは、
>裏を返せば「喜べないのは救われていないからだ」ということになります。

救われていない人は喜べないでしょうね。

喜んでないから救われていない、とは言えないけどね。

「ハッキリしてないのは救われてないのだ」と書いたつもりだが。


歎異抄第九章を引っ張り出さないと「喜べない」のが正当化できない

あなた方の信仰はよくわかりました。

正信偈拝読しても有り難くないんでしょ。

救われてない人の話はつまらん。



「獲信見敬大慶喜」と書き残してくださったのは

本当だったなあ。

祖師聖人ましませばこそ、と正信偈を拝読できるまで

聞き求めましょうね。


ここに書いていることは私の「法悦」なんだが

あなたにとってはつまらんのだろうな。

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再度「あなたは少しは喜ぶ善人ですね。」「法悦」「念仏」について

>救われていない人は喜べないでしょうね。
>喜んでないから救われていない、とは言えないけどね。
>「ハッキリしてないのは救われてないのだ」と書いたつもりだが。

それならば、「獲信見敬大慶喜 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-226.html)において、私の

>私の場合は「うれしさにおど」るというよりも、
「かたじけない、申し訳ないことであるな」
というふうな静かな心もちであると言った方がより近いと思います。

というコメントに対して管理人さんのおっしゃった

>「救われても少しも喜ばぬ極悪人が救われたから」
>大慶喜になるんですよ。
>あなたは少しは喜ぶ善人ですね。

というのは、信未信の沙汰としては極めて不適当ですよね。何故ならば、(前回もコメントした通り)管理人さんは結局「私の喜びよう」だけでもって私の信未信を沙汰しているからです。

さらにその続きの部分、管理人さんのいう「ハッキリ」にあたる部分も無視されておられます。

>(汚穢な譬えで大変失礼ですが)どんなにはからっても所詮「うんこ製造機」でしかない私をめあてとして、阿弥陀仏は確かに「われをたのめ 必ず救う」とお誓いになっておられるのであり、私の口から<南無阿弥陀仏>の名号となって出てきてくださっているのです。そうして私に芽生える往生安堵の思いも阿弥陀仏の方から回施(回向)してくださったものであり、その体は本願名号であって、「確かに」という思いも「自身のはからい」で獲るものではありません。

ここでいう「阿弥陀仏が回施(回向)してくださった「確かに」という(私の)思い」という点について、管理人さんの方から何かおっしゃることはありませんか。

いずれにせよ当エントリーでの管理人さんの「喜んでないから救われていない、とは言えないけどね。」というご主張からは、「救われた喜びが無いの? 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-225.html)の

>はっきり信心獲たから喜ばずにおれない。

というご主張にも例外を認めうることになります――つまり管理人さんのご主張は矛盾しているのですね――。それが『歎異抄』第9条の唯円房なのではないかと、私は繰り返しお尋ねしているのです。

1:「管理人さんは「『歎異抄』第9条の唯円房は宗祖が諭されるまでは自力念仏の行者だった」とみておられるのでしょうか。」

なお、

>歎異抄第九章を引っ張り出さないと「喜べない」のが正当化できない
>あなた方の信仰はよくわかりました。

ですが、これは管理人さんの誤解ですね。私が言いたいのは「救われた喜びが無いの? 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-225.html)へのコメントで申し述べたとおり、

「「喜べない人」に対してどうふるまうのか、そのことをもっと丁寧に論じるべきでしょう。 」

ということなのです。管理人さんは「救われてもなお盛んな煩悩といかに向き合うのか」ということについて語ることから、逃げておられるように思えます。

----------

管理人さんの「法悦」について少し考えてみました。
管理人さんは「獲信見敬大慶喜 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-226.html)において、以下のようにそれを語っておられましたよね。

>恒河の底に沈んでいた私が、弥陀の光明に照らされて
>浮かび上がっては沈みを繰り返していた億劫からの昔。
>この度、摂取の光明の網の中におさめとられたが
>本性は川底にいた時とすこしも変わらない煩悩の固まり。
>この世のあるいはあの世のどんな悪人よりも
>諸仏にも嫌われ捨てられた極悪人を
>本師本仏の弥陀一仏が「そのまま来い」と呼んで下さったときの
>喜びは「大慶喜」以外のなにものでもありません。

と。ここで思い起こされるのが、管理人さんの「二河譬」理解です。即ち、「「白道とは」と書かれてあっても「白路」ですか2 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-172.html)へのコメントでまとめたように、

「二河譬の譬喩段は観経の顕説」
「『白道』の白は自力小善の路である」
「無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡り」
「獲信は二河の中、白道上のこと」

というものでした(間違っていたら訂正してください)。

ここで、管理人さんご自身の語っておられる「本師本仏の弥陀一仏が「そのまま来い」と呼んで下さったときの喜びは「大慶喜」以外のなにものでもありません。」という点に、矛盾が生じます。つまり「そのまま来い」が、実は「そのまま――」ではないのですね。管理人さんの「二河譬」理解では、「無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡」らないと、その呼び声が聞けないわけですから。この点について詳しくご説明願えないでしょうか。

私がことさら管理人さんの「法悦」についてお尋ねしているのは、獲信者の「法悦」はそれが真実信心である限り、そのまま「法説」となるからなのです。

2:「管理人さんの法悦をもっと詳しくお聞かせいただけませんか。」

----------

管理人さんは前回「念仏」について、

>本願寺のみなさんのお念仏がおろそかなのを心配しております。

とだけおっしゃられました。もう少し詳しく語っていただけないでしょうか。

3:「管理人さんご自身で称名念仏、即ち口称の<南無阿弥陀仏>について語っていただけますか。」

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以上3点、引き続きよろしくお願いします。
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