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常歓喜 常懺悔

>「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、
>またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ」

唯円房の言葉を出さなくても祖師聖人も懺悔のお言葉はたくさん書き残しておられます。

「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、
恥づべし傷むべし」(教行信証)

「定聚の数に入ることを喜ばず」とは

「今救われたことをよろこぶ心は全くない」ということ。

そういう者が救われたから

「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏の師釈に、
遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」

「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。」

と喜んでおられる。


「踊躍歓喜のこころおろそか」とは全然無いということです。

「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。」が

「踊躍歓喜」です。

歎異抄はカミソリですから、無理ですよ。

正信偈のお勤めしてますか?

御文は拝読されてますかね。

正信偈も御文もどこを読んでもお慈悲の極まり。

お念仏がいさみの念仏なら、お勤めも、いさんでするものです。

本願寺のみなさんのお念仏がおろそかなのを心配しております。



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「あなたは少しは喜ぶ善人ですね。」「法悦」「念仏」について

管理人さんは「救われた喜びが無いの? 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-225.html)への私のコメントに対し、

>あなたは少しは喜ぶ善人ですね。

と評されました。長くなりますがコメントの全文を再度引用します。

----------

どうもコメントが正しく伝わっていないようで申し訳ありません。

>「いまこそあきらかにしられたり」と聞かせていただいて
>そのとおりだったなあー、とうれしさにおどったことがないんですか?

このエントリーのタイトル「救われた喜びが無いの? 」もそうですが、もう一度コメントを丁寧にお読みください。そのようなことは申しておりません。

もっとも私の場合は「うれしさにおど」るというよりも、「かたじけない、申し訳ないことであるな」というふうな静かな心もちであると言った方がより近いと思います。(汚穢な譬えで大変失礼ですが)どんなにはからっても所詮「うんこ製造機」でしかない私をめあてとして、阿弥陀仏は確かに「われをたのめ 必ず救う」とお誓いになっておられるのであり、私の口から<南無阿弥陀仏>の名号となって出てきてくださっているのです。そうして私に芽生える往生安堵の思いも阿弥陀仏の方から回施(回向)してくださったものであり、その体は本願名号であって、「確かに」という思いも「自身のはからい」で獲るものではありません。

このような阿弥陀仏と衆生(私)との関係は、しばしば母親と乳飲み子の関係に譬えられますよね。母親に抱かれた乳飲み子が安心してすやすやと眠っていられるのは、ひとえに母親の慈しみによるものであり、決して乳飲み子がそれを母親に依頼したわけではありません。やがて乳飲み子が母親を「お母さん」と呼ぶようになるのも、母親がずっと「お母さんですよ」と呼びかけ続けていたからに他ならず、乳飲み子は母親の願いの内に成長していくのです。この譬えは、阿弥陀如来の本願を母親の慈しみに、〈南無阿弥陀仏〉の名号を母親の呼びかけに譬え、「他力本願」とか「全分他力」といわれる浄土真宗の信心のありようをあらわしたものです。ここには「私」の願いの挟まれる余地は全くないので、「信心をめぐまれる」とか「ご信心」などと呼びならわされているのでした。

(これを読まれた方で、子供あるいは母親に関して何らかの深刻な問題を抱えていらっしゃる(あるいは過去そうであった)方に不愉快な思いをさせたのであれば、大変申し訳ないことであります。あくまで譬喩であるとお受け取りください。)

>喜んだのが信心じゃないなんてあたりまえ。

その通りですね。それが前回のエントリー(「「救われたら火に触ったよりもハッキリするか?」って 」http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-224.html)への私のコメントの要旨です。

「喜んだのが信心じゃないなんてあたりまえ。」「それなら「喜んでいるか否か」で信未信を沙汰してはいけませんね」ということです。

>はっきり信心獲たから喜ばずにおれない。
>はっきり救われた安心があれば
>「うれしさが今宵は身に余る」と聞いて
>「あなたもそうなの、よかったねー」と、『兄弟』なら喜ぶが

「はっきり」を前々段での私の「確かに」のように他力信の意味で用いておられるのならその通りですが、問題は『歎異抄』第9条の唯円房のように「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ」というような方もおられるということです。この点に関して、管理人さんは前回のエントリーで

>「救われても火に触ったほどにはハッキリしない」というのは
>救われていない証拠。

とだけ述べられました。つまり管理人さんのおっしゃる「はっきり信心獲たから喜ばずにおれない。」とは、裏を返せば「喜べないのは救われていないからだ」ということになります。果たしてそうでしょうか。管理人さんは「第9条の唯円房は宗祖が諭されるまでは自力念仏の行者だった」とみておられるのでしょうか。第9条全体を読むとそうはならないと私は思うのですがいかがでしょうか。

また、ご自分以外の人の信未信を「喜んでいるか否か」即ち「(その人の)自身のはからい」のみを通して沙汰されて、未信とみなした人に手を差し向けることなく切り捨てておられるところも問題です。では「喜べない人」に対してどうふるまうのか、そのことをもっと丁寧に論じるべきでしょう。

>そういう人がいることを信じられないから

これもそのようなことは申しておりません。悪質な論旨のすり替えではないでしょうか。
というより私自身「そういう人」たちの営みにもよおされて真実信心を頂いたのだなと、今になって振り返るのですが。

>「その喜びは自身のはからい云々」と疑ってみる。

これもこのような主張はしていません。

ただし、たとえ真実信心を獲た他力念仏の行者であっても、しかるべき方についての法義示談は重要であると私は考えます。というよりむしろ「信後のお聴聞こそ大事」と言われる方もおられるくらいですしね。その通りだと思います。

私にとってお聴聞は、誤解を恐れずに言えば「限りなく暇つぶしに近いたのしみ」になっていますが、それでもやはり思うところは「かたじけない、申し訳ないことであるな」なのでした。

>そういうのを「疑謗破滅さかりなり」と言われたんですよ。

五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそひて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり
(『正像末和讃』13)

「念仏信ずるひと」を誹謗しているつもりは全くありません。

>異安心だっていうなら、「御教化」いただけますか?(笑)

私が「教化」するという態度ではなく、一緒にきちんとお聖教を読んでお念仏申しましょう、と考えています。
要するに「御教化」されるのは仏祖及び善知識方ということですね。

>「強烈にハッキリするものではない」という文証でも出されればよろしい。
>坊主の屁理屈はたくさんです。

屁理屈ではありません。
繰り返しますが、「「(その人の)自身のはからいで」信未信を沙汰する」ということを問題にしています。
再度引用しますが、管理人さんの

>「救われても火に触ったほどにはハッキリしない」というのは
>救われていない証拠。

と言われる態度を問題にしているのです。

また「文証」と言うか、例えば先に挙げた『歎異抄』第9条の唯円房のように「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ」ような方は、管理人さんの論理では「救われても火に触ったほどにはハッキリしない」方ですが、このような方について管理人さんはどのようにお考えなのでしょうか。

----------

管理人さんは結局「私の喜びよう」だけでもって私の信未信を沙汰しているのではないでしょうか。

>喜んだのが信心じゃないなんてあたりまえ。

と主張されているのにもかかわらず、です。

それで『歎異抄』第9条の唯円房についてお尋ねしたのです。ここで、当エントリーで管理人さんが示された

>「踊躍歓喜のこころおろそか」

というのは唯円房の訴えで

>「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。」

というのは宗祖のお示しです。ですから『歎異抄』第9条の唯円房の言葉には、懺悔の言葉はあっても歓喜・慶喜の言葉はないのです(管理人さんの「「踊躍歓喜のこころおろそか」とは全然無いということです。」という説明によれば)。ですから私は問うたのです。

1:「管理人さんは「『歎異抄』第9条の唯円房は宗祖が諭されるまでは自力念仏の行者だった」とみておられるのでしょうか。」

これについてお答え願えますでしょうか。管理人さんの論理では「「極大の歓喜・慶喜」と「極大の懺悔」が同時に起きていないと、真実信心を獲たとはいえない。」ということだと思いますので。

----------

また前エントリー「獲信見敬大慶喜 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-226.html)へのコメントでもお尋ねしました。

2:「管理人さんの法悦をもっと詳しくお聞かせいただけませんか。」

これについてもお答え願えますでしょうか。

----------

>本願寺のみなさんのお念仏がおろそかなのを心配しております。

「経釈を貫く「一切衆生は悪人」という真実 」(http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-205.html)へのコメントでもお尋ねしました。

3:「管理人さんご自身で称名念仏、即ち口称の<南無阿弥陀仏>について語っていただけますか。」

この機会に是非とも語ってください。

以上3点よろしくお願いします。
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