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「救われたら火に触ったよりもハッキリするか?」って

火に触った体験というのは、

この世のことで「そらごと、たわごと」の一つですから

いくら強烈な体験でも、次第に薄れてゆきます。

信心決定の体験は「火に触った『よりも』ハッキリする」というのは

これ以上譬えようがないから、そういう表現をするだけです。

「救われても火に触ったほどにはハッキリしない」というのは

救われていない証拠。

「いまこそあきらかにしられたり。」と言われたのは

「文明六年七月三日これを書く」と書かれた時ではない。

念々に明らかだから「いまこそ」と言われているんですよ。
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No title

飛雲でこんなことかいてだじゃないの。

>○因果の道理を深信する親鸞学徒
>仏眼から見れば因果を撥無する衆生でも、人間の眼からみれば、因果の道理を深く信じている人もいればいない人もいるということです。


深信って曖昧なものでしょ。
だって、顕正新聞で、
「信前信後を問わず因果の道理を深信する親鸞学徒」
と言っているから、信前も信後も変わらないんだよ、シンランカイの深信とはね。

じゃあ、ハッキリしないのが深信、もちろん二種深信もハッキリしないとシンランカイが言っているんだけど、釈明してみろよ。

信後は深信因果で信前は因果を撥無なら、「信前信後を問わず因果の道理を深信する親鸞学徒」はおかしいぞ。

「歓喜正因」ではありません

管理人さん、お久しぶりです。

>火に触った体験というのは、
>この世のことで「そらごと、たわごと」の一つですから
>いくら強烈な体験でも、次第に薄れてゆきます。
>信心決定の体験は「火に触った『よりも』ハッキリする」というのは
>これ以上譬えようがないから、そういう表現をするだけです。

ここで確認しておくと、管理人さんは「信心決定は強烈な体験で、しかも薄れることがない」とご主張なのですね。さらに、

>「救われても火に触ったほどにはハッキリしない」というのは
>救われていない証拠。

とも主張されて、(自身のはからいで)ハッキリするか否かでもって信未信を沙汰されているようですが、これでは「歓喜正因」になってしまいます……。

浄土真宗では「獲信の強烈さ」などは沙汰したりいたしません。ですから、

>「いまこそあきらかにしられたり。」と言われたのは
>「文明六年七月三日これを書く」と書かれた時ではない。
>念々に明らかだから「いまこそ」と言われているんですよ。

これはそのとおりですが、「いまこそあきらかにしられたり。」というのは先に述べたように「自身のはからいで強烈にハッキリする」のではありません。

浄土真宗の真実信心とは、如来回向の他力信心です。ご本願を疑いなく頂戴しお念仏申すのが浄土真宗です。

『御文章』2-13

それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもつて本意とするなり。しかるに、ちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもつてわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。そのゆゑは、「すでに牛を盗みたる人とはいはるとも、当流のすがたをみゆべからず」(改邪鈔・三意)とこそ仰せられたり。この御ことばをもつてよくよくこころうべし。つぎに当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。さればこのこころを『経』(観経)には、まさに「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さてはわが身のほとけにならんずることは、なにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことは、さらにもつてあるべからざるものなり。しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩のありがたきほどをよくよくおもひはかりて、仏恩報謝のためには、つねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  [文明六年七月三日これを書く。]

安心論題/歓喜初後

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