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大経に明かされた「常没の衆生」とは2

五悪段の最初のお言葉が

「その一つの悪とは、諸天・人民・蠕動の類、衆悪をなさんと欲へり、みなしからざるはなし。」

「衆悪をなさんと欲へり、みなしからざるはなし。」よく読みなさい。




その後に「常没の衆生」の正体をあばかれている。

そのなかに展転して出づる期あることなく、解脱を得がたし。
痛みいふべからず。(一つの悪)
そのなかに展転して世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。
痛みいふべからず。(二つの悪)
そのなかに展転して世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。
痛みいふべからず。(三つの悪)
そのなかに展転して、世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。
痛みいふべからず。(四つの悪)
そのなかに展転して世々に劫を累ね、出づる期あることなく、解脱を得がたし。
痛みいふべからず。(五つの悪)


結論が

「心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。」

のお言葉。

「かつて一善もなし」それもそのはず。

書かれているのは因果を否定する闡提の定義ばかり。



「先聖・諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、
死してのちに神明さらに生ずることを信ぜず。善をなせば善を得、
悪をなせば悪を得ることを信ぜず。真人を殺し、衆僧を闘乱せんと欲ひ、
父母・兄弟・眷属を害せんと欲ふ。」
「かくのごときの世人、心意ともにしかなり。愚痴矇昧にして
みづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず。」
「かくのごときの世人、善をなして善を得、道をなして道を得ることを信ぜず。
人死してさらに生じ、恵施して福を得ることを信ぜず。善悪の事すべてこれを信ぜずして、
これをしからずと謂うてつひに是することあることなし。」


「仏の経法を信ぜず」「愚痴矇昧」、

愚痴というのは「善悪の事すべてこれを信ぜず」

これが一闡提なのだが

五逆か謗法か闡提かの「罪の沙汰」ばっかりしている連中には

「無信」の罪の重さがわからない。

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No title

そこの部分を親鸞聖人は引用されていない。

ニホンゴワカリマスカ?


上輩


十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。



中輩


それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。


意味分かるか?

真実の経には、上輩・中輩という善人が説かれている。


五悪は、そういう人がいるということであって、それがすべての衆生でないことは明明白白。

No title

再掲


>聖道の代表的人格である「弥勒菩薩」を

>「永劫よりこのかた五道に展転して、乃至。今世まで生死絶えず」と

>「常没の衆生である」ことを明らかにされた後に


補処の弥勒菩薩が「常没の衆生である」なら、「常没の衆生」の中に、自力で補処までさとることのできる善人、菩薩がいるということだね。


自分のいっていることわかってるの?

No title

愚痴と闡提の違いも知らないの?

仏教辞典を調べてきたら?

No title

弥勒菩薩は、深信因果という行を修して、補処のくらいにいるんだけど、弥勒菩薩も「常没の衆生」なんでしょ。

管理人さんの考えは、弥勒菩薩も闡提であるが、補処までさとっているってことでしょ。


頭大丈夫?

No title

参考までに、上品中生とは観経疏に


次に上が中を対せば、諸師のいふ、「これ初地より四地以来の菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「必ずしも大乗を受持せず」と。 いかんが「不必」と名づくる。 あるいは読み読まず、ゆゑに不必と名づく。 ただ善解といひていまだその行を論ぜず。
またのたまはく(観経・意)、「深く因果を信じ大乗を謗らず、この善根をもつて回して往生を願ず。 命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と一時に手を授けてすなはちかの国に生ず」と。 この文をもつて証するに、またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして終時の迎候に異なることあらしむることを致す。
しかるに初地より四地以来の菩薩は、その功用を論ずるに、『華厳経』に説きたまふがごとし。 すなはちこれ不可思議なり。 あに韋提の請を致すによりて、まさに往生を得んや。


とあるね。

わかるかな、「深く因果を信じ」なんだよね。

智覚禅師は、上品上生だから、当然「深く因果を信じ」ているよね。
ましていわんや補処の弥勒菩薩は、「深く因果を信じ」ることは、当然の当然なことで、説明は不要。


智覚禅師も弥勒菩薩も「常没の衆生」なんだろ。

その「常没の衆生」に、「深く因果を信じ」る衆生、つまり闡提でも愚痴でもない衆生がいつということになるぞ。



自己矛盾を少しは考えて書けよ。

闡提と切り捨ててどうするのですか

一悪、殺生
仏のたまはく、「その一つの悪とは、諸天・人民・蠕動の類、衆悪をなさんと欲へり、みなしからざるはなし。(中略)これを一つの大悪・一つの痛・一つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端しくし、行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲ん。これを一つの大善とす」と。

二悪、偸盗
仏のたまはく、「その二つの悪とは、世間の人民・父子・兄弟・室家・夫婦、すべて義理なくして法度に順はず。(中略)これを二つの大悪・二つの痛・二つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端しくし、行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲ん。これを二つの大善とす」と。

三悪、邪婬
仏のたまはく、「その三つの悪とは、世間の人民、あひ因り寄生してともに天地のあひだに居す。(中略)これを三つの大悪・三つの痛・三つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端し、行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱してその福徳・度世・上天・泥洹の道を獲ん。これを三つの大善とす」と。

四悪、妄語
仏のたまはく、「その四つの悪とは、世間の人民、善を修せんと念はず、うたたあひ教令してともに衆悪をなす。両舌・悪口・妄言・綺語、讒賊闘乱す。(中略)これを四つの大悪・四つの痛・四つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて、一心に意を制し、身を端し、行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲ん。これを四つの大善とす」と。

五悪、飲酒
仏のたまはく、「その五つの悪とは、世間の人民、徙倚懈惰にして、あへて善をなし身を治め業を修せずして、家室・眷属、飢寒困苦す。父母、教誨すれば、目を瞋らし怒りて譍ふ。 (中略)これを五つの大悪・五つの痛・五つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端し、念を正しくして、言行あひ副ひ、なすところ誠を至し、語るところ語のごとく、心口転ぜずして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲ん。これを五つの大善とす」と。

管理人さんの言われるように「一切衆生=一闡提」ならば、何故五悪に続いて五善が説かれるのか。闡提に聖道門の修行を勧めるのが『大経』の教説であるとでもおっしゃりたいのでしょうか。
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