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しっかりとカナメをはずす飛雲

>仏性も如来も「微塵世界にみちみちたまへり」なのです。仏性、他力の信心の中に我々が包み込まれている、それが判ったことを他力の信心を獲たというのです。

http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-5fa1.html

「それが判ったことを他力の信心を獲たというのです」という

「判った」に自力と他力があるのだが、その違いを説かないのが

偽本願寺派の特徴でしょう。




「菩薩、もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば、聞見と名づけず」

「不可思議の信心」なのですが

「難思の弘誓」も「別に不可思議じゃない」そうですから

その程度の「判った」なのでしょうね。

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No title

はあ?

どこ読んでるのよ。

飛雲さんは、無力と自力と他力の違いを何度も書かれてるけど。

ニホンゴワカリマスカ?

No title

他力・自力・無力の分際の判らぬ者達
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-35e4.html

タカモリカイチョウ」も、講師部員も、もちろんシンラン会の会員も、他力信心・自力信心・無力信心の違いが判っていないために、頓珍漢な信心に陥っているのです。

他力信心について、親鸞聖人は様々に教えておられますが、晩年に自然法爾ということを仰っています。

『末灯鈔』

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。

 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。

 無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

(現代語訳)

 「自然」ということについて、「自」は「おのずから」ということであり、念仏の行者のはからいによるのではないということです。「然」は「そのようにあらしめる」という言葉です。「そのようにあらしめる」というのは、行者のはからいによるのではなく、阿弥陀仏の本願によるのですから、それを「法爾」というのです。「法爾」というのは、阿弥陀仏の本願によってそのようにあらしめることを「法爾」というのです。「法爾」は、このような阿弥陀仏の本願のはたらきですから、そこには行者のはからいはまったくないということです。これは「法の徳」すなわち本願のはたらきにより、そのようにあらしめるということなのです。人がことさらに思いはからうことはまったくないのです。ですから、「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」と知らなければならないというのです。

 「自然」というのは、もとよりそのようにあらしめるという言葉です。阿弥陀仏の本願は、もとより行者のはからいではなく、南無阿弥陀仏と信じさせ、浄土に迎えようとはたらいてくださっているのですから、行者が善いとか悪いとか思いはからわないのを、「自然」というのであると聞いています。阿弥陀仏の本願は、すべてのものを「無上仏にならせよう」とお誓いになっています。

 「無上仏」というのは、かたちを超えたこの上ないさとりそのものをいうのです。かたちを離れているから、「自然」というのです。かたちがあると示すときには、この上ないさとりとはいいません。かたちを離れたこの上ないさとりを知らせようとして示されたすがたを、阿弥陀仏というのであると聞いています。阿弥陀仏とは、「自然」ということを知らせようとするはたらきそのものなのです。この道理を心得た後には、「自然」についてあれこれと思いはからってはなりません。常に「自然」について思いはからうようなら、「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」といったところで、それははからっていることになるのです。これは、思いはかることのできない仏の智慧のはたらきそのものなのです。

これは、『正像末和讃』の最後にも書かれていまして、親鸞聖人最晩年に他力信心をこのような言い方で教えられていたことが判ります。

善悪無関係の阿弥陀仏の18願をそのまま受け入れたのが他力信心なのです。

善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、そのまま阿弥陀仏の18願を受け入れるのですから、悪人が善人になる必要もありませんし、善人が悪人になるのでもありません。

シンラン会のいう、

善をしなくてもいいのなら、悪をすれば救われるのか

が如何に愚かな問いであるかこれでお判りいただけると思います。「悪をすれば」がはからい、自力の信心です。もちろん「善をしなければ」もはからい、自力の信心です。

阿弥陀仏が選択なされた18願だけでは不足だといっているのは、間違いなく仏智を疑っているのであり、自力の信心です。

また、他力の信心を賜わったならば、凡夫にはない智慧が備わる、神秘的な体験がある、というのも自力の信心です。前回もいいましたように、死後の世界が判ることもありません。阿弥陀仏の姿が見える訳でも、阿弥陀仏の声が聞こえるようになる訳でもありません。
「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。」と仰っているように、阿弥陀仏も無上のさとりも浄土も、凡夫の智慧では認識することができないのです。空だからです。
凡夫の認識できるような「かたち」のある信心を阿弥陀仏から賜わるとはからっているのが、自力の信心です。信心も空です。何か「かたち」のあるものと思っているのが、有の見と言うことができます。
地獄一定と必ず知らされると拘っていることも、そのような「かたち」があると思っているのです。判りやすい例が、龍樹菩薩に「地獄一定」という告白がある筈もなく、そのような「かたち」が万人共通でないことは明白です。
地獄へいくようなものと懺悔することと機の深信との区別さえつかないのです。

一方で、そのまま受け入れる、と言えば、思考停止ではないか、という人がいますが、思考停止は無力の信心です。思考停止は「信不具足」です。親鸞聖人は『教行信証』信巻に『涅槃経』を引かれて

信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。

(現代語訳)

信には二種がある。一つには、ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、二つには、よくその意味内容を知って信じるのである。ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。

と教えられています。思考停止しているシンラン会の会員は、無力の信心ともいえます。無力の信心は無の見ともいえます。

まとめれば、18願以外に何かを加えようとはからったり、信心に「かたち」を求めることが自力の信心、有の見です。教えがどうであろうと言われたまま何も考えずに従っていればいい、は無力の信心、無の見です。
他力の信心は、自力の信心でも無力の信心でもなく、有の見でも無の見でもありません。

タカモリカイチョウ、講師部員には、他力・自力・無力の分際が全く判っていないのです。

論点ずらし、ですね

>仏性も如来も「微塵世界にみちみちたまへり」なのです。仏性、他力の信心の中に我々が包み込まれている、それが判ったことを他力の信心を獲たというのです。

飛雲氏のこのご主張はその通りだと思います。しかし、管理人さんの

>「それが判ったことを他力の信心を獲たというのです」という「判った」に自力と他力があるのだが、その違いを説かないのが偽本願寺派の特徴でしょう。

というご主張は、単なる「論点ずらし」なのです。

何故ならば、「「判った」に自力と他力がある」のは当然なのですが、「それが判ったことを他力の信心を獲たというのです」における「判った」は他力の信相でしかありえないからです。

阿弥陀仏の本願に往生成仏をおまかせして、今その救済にあずかっているというこころもち――もちろん称名念仏抜きには考えられないことですが――は他力信でしかありえません。「不可思議の信心」。もちろんです。如来回向のご信心ですからね。

飛雲氏はその領解(りょうげ)を「判った」という言葉で述べられているのですが、管理人さんはその「判った」という言葉のみを取り出して難癖を付けているに過ぎない、だから「論点ずらし」なのです。
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