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梯實圓氏なんか「ああそうですか」だろうが

>いはんや罪五逆にいたらず、

法然上人や唯信鈔には「五逆のものにあらず」という表現はあるが

祖師聖人の書かれたものにはそういう表現はないのだよ。

これは梯實圓氏もちゃんと書いている。

相対門と絶対門の教え方の違いというのは真宗教義の常識。

常識がないから、祖師を論破しちゃうんだろうが。



また出張から帰ったらおもちゃで遊ぼう。


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No title

「三宝の世にむまれて、五逆をつくらざるわれら、弥陀の名号をとなえむに、往生うたがふべからず。」(西方指南抄)


西方指南抄知ってるか?

親鸞聖人が編纂なされたんだよ。

編纂意味分かるか?難しいか?

親鸞聖人が書かれたものということ。



「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)


唯信鈔知ってるか?
親鸞聖人が御自身で書写されて、それを、関東の同行に読むように勧められている訳よ。

書写の意味わかるか?

親鸞聖人がこの文章を書かれたってこと。


ニホンゴワカリマスカ?

No title

梯氏の言っていることを信用するのかしないのかどっち?
あれだけボロクソニ言っておきながら、

「梯氏の言っていることが正しいから飛雲氏が間違っている」

パロディかよ。

No title

絶対門ってこういうことでしょ。

また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。この義かくのごとし。

しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。
         (行巻)


訳も付けておきよ。


また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雉毒の善しかないから悪人と貶称される。
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。
 このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。




「念仏者は善人、諸善の人は悪人」


意味わかる?

五逆罪に未造・已造の別を認めたのですね

>法然上人や唯信鈔には「五逆のものにあらず」という表現はあるが

三 つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。

 これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。
          (『唯信鈔』 15)

管理人さんはようやく五逆罪に未造・已造の別を認めたのですね。言い換えると、「一切衆生=一闡提」という根拠のない妄想を覆されたのですね。誠に喜ばしいことです。

さるべき業縁・宿業

>祖師聖人の書かれたものにはそういう表現はないのだよ。
※そういう表現=「五逆のものにあらず」

『歎異抄』の第13条に

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」

という宗祖のお言葉が伝えられています。以下、件の梯實圓氏の解説を見てみます。

----------

 この条は、たとえ本願を信じたといっても、悪をおそれないものは、「本願に甘えているもの」であって往生できないと非難し、厳粛な念仏生活を往生の条件にしようとする専修賢善の異義を批判されたもので、わが身の善悪を超えて救いたまう本願の御はからいにまかせよとすすめたものです。
 ところで、ここに示された宿業についての問答は有名です。人は皆、自分で自分を思うように制御できない悲しい存在であるということを「宿業」という重い言葉で表されたのでした。それゆえ「そのままを我にまかせよ」と仰せられる如来の本願力をたのみ、まかせたてまつって念仏申すほかに救われる道はないといわれるのです。それが自力を離れて他力に帰するというニ種深信であらわされるような他力の信心であるといわれるのです。
     (出典:『歎異抄 現代語訳付き 梯實圓解説』 本願寺出版社)

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宗祖は浄土真宗の行信について、五逆罪の未造・已造を論じる立場を超えてお示しになっているのですね。造悪無碍も専修賢善もともに異義であることはいうまでもないことなのですが、法然聖人(宗祖に倣い「聖」を用います)が第十八願文の唯除の御文をもって念仏者の倫理観とされたこととも、また少々趣を異にします。

私自身は念仏者の倫理観や宗祖の宿業思想についてこれ以上語ることができませんが、ただくれぐれも「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」の御文をもって「一切衆生=一闡提」の根拠としてはなりませんよ。

『歎異抄』 第13条

一 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
 よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。
「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。
わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。 まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。
また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞)は仰せ候ひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか。
願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ他力にては候へ。『唯信抄』にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。 本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。おほよそ、悪業・煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。
本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきことか。

No title

みっともないですよ。
S会の恥さらし。
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