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梯實圓信奉者は六要も読んでいないのか?

せっかく六要鈔を用いているのなら、ちゃんと読もうね。

「 『この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。
『観経』の定散九品の文これなり。」
 次にこの願の下一行余は、私の御釈なり。『観経』等とは、
問う、九品の行は、これ散善なり。何ぞ定散というや。
答う、総じて定散を標す。その二善の中に別して散善の中の九品を挙ぐ。
三輩九品は一機たるが故に九品を標するなり。」(六要鈔)

『三輩九品は一機たるが故に』



先に「三輩・九品同異の義は、異解ありといえども、

『撰択集』の意は既に輩品開合の義を存す。」と

「三輩・九品の開合」を説かれた上で「三輩九品は一機」と明かされているのは

定散とも「常没の極重悪人」であれば当然のこと。

「極重悪人に善人悪人がいる」というのも奇説ですね。

「金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。」(行巻)

「不二」「一機」を妄説とする飛雲氏は

さすが外道好きな梯實圓氏の信奉者だな。

他流でもない、単なる外道だろう。
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No title

まだ言ってるの?
相当頭が悪いね。

>「極重悪人に善人悪人がいる」というのも奇説ですね


誰が言ったの?

妄想ばかりしているから、日本語も読めんないんだよ。

No title

六要も全くのデタラメ

その証拠に、持名鈔にこうある



薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。
如来はすなはち良医のごとし。
機をかがみて法を与へたまふ。
しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機 には念仏をすすむ。



存覚上人は、上根と下根に分けておられる。


どこが極重の悪人一機と書いてあるんだよ。


ホントに大丈夫?

No title

存覚上人の真要鈔も挙げようか?


「『観経』のなかに定善ばかりを説 ば、定機ばかりを摂すべきゆゑに、散機の往生をすすめんがために散善を説く」となり。
これになずらへてこころうるに、散機のなかに二種の品あり。
ひとつには善人、ふたつには悪人なり。
その善人は三福を行ずべし。
悪人はこれを行ずべからざるがゆゑに、それがために十念の往生を説くとこころえられたり。



定機と散機があって、散機の中に善人と悪人がいる。

善人は三福を行ずることができるが、悪人は三福を行ずることができない。


ニホンゴワカリマスカ?

No title

(再掲)


絶対不二の機もいつもの断章。


この前に


 また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。この義かくのごとし。

 しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。



とある。この絶対不二の機とは、諸善の機に対する念仏の機のこと。

どうせわからないだろうから訳を教えてあげると


また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雉毒の善しかないから悪人と貶称される。
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。

 このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。



わかった?
2013-06-06(22:18) : URL : 編集

それで大経に闡提の一機とあるの?

それで大経に闡提の一機とあるの?

結局ないんでしょ。

それと、涅槃経に

上根・中根・下根とあるのは認めた訳ね。



よって今回の結論。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

・真実の経の大経には、三輩が説かれている。

・真実の経の大経には、衆生は闡提の一機と説かれていない。

・涅槃経には、上根・中根・下根と分けられていると親鸞聖人が教えられている。

・存覚上人は、上根・下根と分けられたり、善人・悪人と明確に分けられている。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


御苦労さま。

「一切衆生=一闡提」の論拠を示しなさい

「梯實圓氏が間違っていても「ああそうですか」なら」
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-181.html

より、

>本願寺関係の方々は六要を使うので、御文を上げることはありますけど、私自身は六要を用いない立場なので全然参考になりません。

こうおっしゃった管理人さんが当エントリーのように『六要鈔』に依って「一切衆生=一闡提」を説明するのは腑に落ちないのですがね。それに挙げられた御文の意味も違うのですが。

>『三輩九品は一機たるが故に』

その通り。善導大師が「九品唯凡」とお示しになられように、三輩九品はみな五濁の凡夫であり、「自力無功(だから乗彼願力の浄土真宗に帰せよ)」ということです。
さて、いったいこれのどこが「一切衆生=一闡提」というお示しなのですかね……。

----------

「 梯實圓氏の主張は日蓮と同じ 」
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-180.html

より、

>「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」
御本典のお言葉をどう読んでいるのやら。

それはこちらの台詞です。

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。 ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
          (「教巻」 指定教体 大経大意)

つまり、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る(『歎異抄』12)」という、あらゆるものをお救いくださる阿弥陀仏の本願、即ち他力念仏が説かれているから『大経』が釈尊出世本懐の真実の経であるとお示しなのです――それに比べて管理人さんって全くと言ってよいほど称名念仏、口称の〈南無阿弥陀仏〉のお話をしませんよね――。

----------

とはいえ「真実の経は『大経』のみ」とは管理人さんご自身も認めるところですので、私からも重ねてお尋ねします。

○「一切衆生=一闡提」の論拠を『大経』の御文でもって示しなさい

「三輩九品は一機」の意味

「 『この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。
『観経』の定散九品の文これなり。」
 次にこの願の下一行余は、私の御釈なり。『観経』等とは、
問う、九品の行は、これ散善なり。何ぞ定散というや。
答う、総じて定散を標す。その二善の中に別して散善の中の九品を挙ぐ。
三輩九品は一機たるが故に九品を標するなり。」(六要鈔)


これはね、簡単に言うと、


問い

九品の行は散善なのに、なぜ定善を含んだ定散というのか。

答え

まとめて定散という。定散二善の中に、別に散善の九品を挙げられている。
親鸞聖人が「三輩の文」「『観経』の定散九品の文」と仰っているが、「三輩」「九品」は同じ機のことであるから、「九品」で顕わされている。



つまりね、三輩と九品は、法然上人が仰っているように、まとめると3つになり、細かく開くと9つになるということ。定善の機はもちろん上品に含めてね。



もう一回言っておこうか。

三輩九品は同一の機を大きくまとめるか、細かく分けるかの違いだけで、内容は同じということ。


三輩九品は闡提の一機におさまるということではないわね。
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