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梯實圓氏が間違っていても「ああそうですか」なら

「日蓮と同じ」であろうがなかろうがどうでもよさそうなものですが

飛雲氏が、本願寺擁護とS会批判ばかり御熱心なのは、

祖師聖人の御教え自体は興味がないのでしょう。



>存覚上人は機の深信の説明として、「正しく有善・無善を論ぜず」としています。
善が有るか無いかは論じない、ということです。
もし「地獄一定」を言いたのであれば、当然ながら、有善・無善を論ずる必要があります。

本願寺関係の方々は六要を使うので、御文を上げることはありますけど、

私自身は六要を用いない立場なので全然参考になりません。

何のために上げられた御文なんでしょうか?

法然上人が機の深信を「断善闡提のごとくなる者」と言われたのは

誤りという主旨なんでしょうかね。

「断善闡提」も「有善・無善を論じていない」お言葉だ、ということ

でしょうか。

法然上人は関係ないということでしょうか。

はっきり書けないんでしょうね。




「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、

穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。」

このお言葉も

「『穢悪汚染』でも悪人ではない」と六要に書いてあるんでしょうか?






「おほよそ大小聖人・『一切善人』、本願の嘉号をもつて
おのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。」

御本典には「すべての善人は信心獲得できない」とはっきり書かれていますが

「一切善人」は「有善無善を論じていない」御言葉だと六要のどこに

書いてあるんでしょう。


きっと常人にはわからない深い読み方が必要なんでしょうね。








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No title

本当に筋が悪いね。

>私自身は六要を用いない立場なので全然参考になりません。

ということは、蓮如上人を否定する立場ということで、真宗ではない。

これでOKね。


>法然上人が機の深信を「断善闡提のごとくなる者」と言われたのは

>誤りという主旨なんでしょうかね。


法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と言われたのは、「断善闡提の者」とは違うということで、日本語が不自由と言うことでOKね。

まあ、「過ぎたる」と「及ばざる」が同一と言い続けている限りはわからんだろうけどさ。


>「『穢悪汚染』でも悪人ではない」

日本語さえわからんのにこれがわかるはずないけど、「『穢悪汚染』とは煩悩具足のこと。

わからんだろ?お勉強しろよ。


>「おほよそ大小聖人・『一切善人』、本願の嘉号をもつて
>おのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
>かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。」


『本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに』がわからんのだね。

念仏を自分の善根とするから

だね。

>御本典には「すべての善人は信心獲得できない」とはっきり書かれていますが


どこに書かれてあるの?日本語読めるの?


きっと狂人にはわかる異次元の読み方をしているのだんろうね。

No title

過去の決着した内容を思い出したらどう?

わからんのだろうね、日本語が理解できないのだから。


全く反論できない、みじめやな高森派の記録。


1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。

32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。

33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。

No title

参考までに飛雲氏の言葉、


『私は、機の深信について、善知識方と存覚上人のお言葉を通してしか説明したことはありません』


これを読んでも

>祖師聖人の御教え自体は興味がないのでしょう。


大丈夫?

ニホンゴワカリマスカ?

捨自帰他(捨機託法)について

>法然上人が機の深信を「断善闡提のごとくなる者」と言われたのは誤りという主旨なんでしょうかね。

管理人さんは前回のコメントを全く読んでいないのですね。もしくは読めていないのですね。
「法然上人が機の深信を「断善闡提のごとくなる者」と言われた」のは、「常没の衆生は皆、断善闡提の「ごとく」自力では出離できないのであるから、他力即ち阿弥陀仏の本願力にお任せしなさい」と言わんがためではないですか。


>「断善闡提」も「有善・無善を論じていない」お言葉だ、ということでしょうか。

これは誤解を恐れずに言うならば、「はい、そのとおりです」となると思います。何故ならば、「断善闡提だから廃悪修善に励まねばならない(有善)」とも「断善闡提だから造悪無碍のままでよい(無善)」ともおっしゃられていないからです。先に述べたように捨自帰他(捨機託法)によって阿弥陀仏のお救いにあずかるのが浄土真宗であり、それは善凡夫だろうが悪凡夫だろうが、謗法闡提だろうが、そして此土にいながら歓喜地を得る聖者だろうが同じであるとお示しなのです。

そして、これを受けて宗祖がお示しになったお言葉が

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
          (「化身土巻」 真門釈 結誡)

ということです。本願名号を己の善根となす自力念仏往生は他力の中の自力の仏道、すなわち「横出」であり、阿弥陀仏のご本願たる他力念仏往生、すなわち「横超」ではありませんからね。そこに迷うなとおっしゃられているのです。


>御本典には「すべての善人は信心獲得できない」とはっきり書かれていますが

こんなことがどこに書かれておるのですか……。

素直に読みましょう

>御本典には「すべての善人は信心獲得できない」とはっきり書かれています~

「本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに」のお言葉をすっとばして読んでいるんじゃないですか。
聖人のお言葉をそのまま素直に読みましょう。

No title

法然上人は「十二問答」の中で、

「かの三宝滅尽の時の念仏者と当時の御房達と比ぶれば、当時の御坊達は仏のごとし」

と仰ってるね。

管理人さんの「ごとし」の理解だと、

「法滅の時の人と比べたら今の皆さんは仏だ」

と、同行は仏だと法然上人が仰ったことになるね。


法然上人の話を聞いていた人は、みな仏だったんだ。
今も法滅ではないから、同行は仏だね。


さすが管理人さんは深いね。

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