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梯實圓氏は法然上人にも背いている

「凡夫には善人と悪人がいて、善人に善をすすめ、悪人にはすすめられていない」

という梯實圓氏。


親鸞聖人のお言葉に反していることはいくつも指摘してきました。

彼は、実は(都合がよいという意味で)法然上人の方が好きなんですが

その法然上人のお言葉にも背いています。

梯氏が以下のお言葉を知らないはずがないでしょう。



「およそ九品の配当は、これ一往の義なり。

五逆の廻心、上上に通ず。読誦の妙行、また下下に通ず。

十悪の軽罪、破戒の次罪、おのおの上下に通じ、

解第一義、発菩提心、また上下に通ず。

一法におのおの九品あり。もし品に約せば、即ち九九八十一品なり。

しかのみならず、迦才の云く、「衆生、行を起すにすでに千殊あり。

往生して土を見ること、また万別あり」と。一往の文を見て封執を起すことなかれ。」


「しかるを上古よりこのかた、多くは下品というとも

たのむべしなんどいいて、上品を願わず。

これは悪業の重きにおそれて、心を上品にかけざるなり。

もしそれ悪業によらば、すべて往生すべからず。

願力によりて生まれば、なんぞ上品にすすまんことを

のぞみがたしとせんや。乃至。

上品は大乗の凡夫、菩提心の行者なり。

菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといえども

浄土宗のこころは浄土に生れんと願ずるを菩提心といえり。

念仏はこれ大乗の行なり。無上の功徳なり。

しかれば上品の往生、手をひくべからず。」(法然上人)




「九品は一往の義、固定したものではない」

「悪業の重さから言えば、上上から下下まで

往生できないのは同じである」


「念仏は大乗の行であり、最高の功徳である。

それゆえ、上品の階位にのぼることはできないなどと

手をこまねいてはいけない」



「下品に善はすすめられていない」と

「善のすすめ」を嫌う輩は昔からあったのですね。


法然上人は「悪をおそれ、善にすすみなさい」と教えておられますよ。


「いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。

されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、

善の三業をば真実心の中になすべし」とこそは釈し給ひたれ。

又「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」

なんど釈し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、

『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」(浄土宗略抄)
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No title

また断章取義だな。懲りない輩だ。

選択集の御文は前が大事

問ひていはく、もししからば下品上生はこれ十悪軽罪の人なり。なんがゆゑぞ念仏を説くや。

答へていはく、念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。余行はしからず。あるいは軽を滅して重を滅せざるあり。あるいは一を消して二を消さざるあり。
念仏はしからず。軽重兼ね滅す、一切あまねく治す。たとへば阿伽陀薬のあまねく一切の病を治するがごとし。ゆゑに念仏をもつて王三昧となす。
おほよそ九品の配当はこれ一往の義なり。五逆の回心上上に通ず。読誦の妙行また下下に通ず。十悪の軽罪、破戒の次罪おのおの上下に通じ、解第一義、発菩提心また上下に通ず。一法におのおの九品あり。もし品に約せば、すなはち九九八十一品なり。しかのみならず迦才(浄土論)のいはく、「衆生、行を起すにすでに千殊あり。往生して土を見ることまた万別あり」と。一往の文を見て封執を起すことなかれ。そのなかに念仏はこれすなはち勝行なり。ゆゑに分陀利を引きて、もつてその喩譬となす。



問うていう。もしそうであるなら、下品上生は十悪の軽罪の人であるのに、どういうわけで念仏を説かれるのか。

答えていう。念仏三昧は、重罪でさえ滅するのに、まして軽罪を滅しないということがあろうか。他の行はそうではない。あるいは軽罪を滅して重罪を滅しないものがあり、あるいは一罪を消して二罪を消さないものがある。念仏はそうではなくて、軽罪・重罪のいずれも滅し、一罪・二罪などのすべてをあまねく治すのである。たとえば阿伽陀薬があまねく一切の病を治すようなものである。ゆえに念仏をもって三昧の王とする。およそ九品にいろいろの行を配当してあるのは、一往の義であって、下下品に説かれてある五逆の回心は上上品に通じ、上上品の読誦の妙行もまた下下品に通ずる。下上品の十悪の軽罪や下中品の破戒の次罪は、それぞれ上下に通じ、上中品の解第一義、上下品の発菩提心もまた上下に通ずるのである。このように一法におのおの九品があるので、もし品についていえば、九々八十一品になる。

それだけでなく、迦才は「衆生が行を起こすことは、千のちがいがあるから、往生してから浄土を見ることもまた万の別がある」といっている。一往の文を見て、それにとらわれてはならない。それらの中で、念仏は勝れた行である。ゆえに分陀利を引いてその喩とされたのである。たとえの意味はまさに知るべきである。



ここで法然上人が仰っていることは、極重の悪人である下々品に念仏しか勧められていないのはわかるが、軽罪の悪人、善人にもなぜ念仏を勧めるのか、との問いに対する答えで、念仏一行で往生するという教えは、九品に差はないということ。


騙しが下手過ぎる。

No title

一々解説するのも面倒なので、結論を言っておく。


法然上人のお言葉だ、心して読んでおけ。



達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。
(勅伝)


智覚禅師は上品上生の往生人、意味解かる?

No title

もう一つ。



上人の給はく、
「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。
其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。
しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。
しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。
かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」
(勅伝)


善人と悪人がいると書いてあるのが、読めるか?

No title

浄土宗略抄は、造悪無碍を誡められたものだろ。



いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。

心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。



如何なる罪や悪が障りにならないからと言って、やりたい放題悪をしてはならない。
出来る限りでよいから、善に心がけることが、仏様の喜ばれることだ、


こんなことも理解できんのか?

No title

いつものお約束


全く反論できない、みじめやな高森派の記録。


1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。

32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。

33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。

「善」という言葉の定義をしなさい

管理人さんは「善」という言葉の定義を曖昧なままに論を展開されるのでややこしいのですが、そのまま書きます。

真実信心を得た念仏者が慚愧の内に己の悪をつつしみ善を心がけることは、大いにあります――宗祖の『御消息』等にもみられることです――。しかしここでの「善」とは、聖道門や浄土の要門で修める諸善万行とは同一ではありません。たとえそれが行体の上で同一(廃悪修善)に見えたとしても、です。なぜならば念仏者のそれは、その「善」でもって仏の悟りに至らんとか浄土に往生しようとかいうこころもちで行うものではないからです。比して聖道門や浄土の要門のそれは、此土入聖と彼土得証の違いはあっても、ともに自力作善ですから、両者の違いは明確です。

浄土真宗の救済は、阿弥陀仏の「われをたのめ 必ず救う」という本願に疑いなく身を任せ、念仏成仏するということ以外にはありません。そのうえで仏恩報謝と慚愧のうちに己の煩悩を見つめ悪を慎むというというのは大いに結構なことでありますよ。

但し冒頭にも述べたように、管理人さんが「善」という言葉の定義を明確にしないままにこのあたりのことを捉えて、「悪をおそれ、善にすすみなさい」といったところで、議論は平行線をたどるだけなのですね。

管理人さん、持論を展開するなら、まず「善」という言葉の定義をしなさい。

『親鸞聖人御消息(上)』<2>(『末灯鈔』(20))

かたがたよりの御こころざしのものども、数のままにたしかにたまはり候ふ。明教房ののぼられて候ふこと、ありがたきことに候ふ。かたがたの御こころざし、申しつくしがたく候ふ。明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。

 またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。めでたさ申しつくすべくも候はず。おのおのみな往生は一定とおぼしめすべし。さりながらも、往生をねがはせたまふひとびとの御中にも、御こころえぬことも候ひき、いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。京にもこころえずして、やうやうにまどひあうて候ふめり。くにぐににもおほくきこえ候ふ。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生などとおもひあひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあうて候ふめり。

 聖教のをしへをもみずしらぬ、おのおののやうにおはしますひとびとは、往生にさはりなしとばかりいふをききて、あしざまに御こころえあること、おほく候ひき。いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。浄土の教もしらぬ信見房などが申すことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひ候ふらんをきき候ふこそあさましく候へ。

 まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。

 しかるになほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬになほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり、毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。

 はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき。

 この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。

 『浄土論』(論註・上)と申すふみには、「かやうのひとは仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」(意)と候ふめり。また至誠心のなかには、「かやうに悪をこのまんにはつつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」(散善義・意)とこそ説かれて候へ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ説きおかれて候へ。

 悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことは候へ。それもわがはからひにはあらず、弥陀のちかひによりて御たすけにてこそ、おもふさまのふるまひも候はんずれ。当時はこの身どものやうにては、いかが候ふべかるらんとおぼえ候ふ。よくよく案ぜさせたまふべく候ふ。

 往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。この文をもつて鹿島・行方・南の荘、いづかたもこれにこころざしおはしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。    建長四年二月二十四日
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