スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「根性の利鈍」を知らせる仏意

>「悪凡夫」である韋提希に定善は出来ないと思います

そうですね。

韋提希は定善を行じていますが、行を成就できなかったのです。


「唯願世尊」より以下は、まさしく夫人別行を請求することを明かす。これ韋
提すでに得生の処を選びて、還りて別行を修して、おのれを励まし心を注めて、
かならず往益を望むことを明かす。(観経疏)


>これ韋提すでに得生の処を選びて、還りて別行を修して

「別行を修して」とある通り。

前に書いたように

「韋提希は定善を修しようともしなかった」というのはうそっぱちです。


上のように「修する」ということを

単に身業口業で「行ずる」という意味で使われている所と

「行を成就する」という意味で使われている所はありますね。

仏教の行は意業を修することができないと成就できません。

目的は「行を成就すること」なので「身業口業で行ずる」のは方便です。



次にこの十三観を、これを修すること、時節に限らず、ただ成就をもって期となす。
これにより文に日数を説かず、観の成就を論ずる事、
衆生の根性の利鈍に依るべし。(法然上人)


>観の成就を論ずる事、衆生の根性の利鈍に依るべし。

韋提希は定善を身業口業で行じて、自分の根性の利鈍を知った。

それが仏意ですから。

「親孝行ぐらいはできるから世善ができる」なんていうのは

如何に仏意に暗いか明らかでしょう。




スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

コメント読んでるじゃない。やっぱり嘘付きだな。他のコメントには全く反論できないことが明白になった。

ではいつもの断章取義を暴くよ。


「唯願世尊」より以下は、まさしく夫人別行を請求することを明かす。これ韋
提すでに得生の処を選びて、還りて別行を修して、おのれを励まし心を注めて、
かならず往益を望むことを明かす。(観経疏)

訳しておくと、

「唯願わくは世尊」より以下は、まさしく韋提夫人が、別して弥陀の浄土に生まれる行を願うことを明かす。これは韋提はすでに往生を得る場所を選んだので、また、その浄土に往生する行を修め、みずからを励まし、心を注いで、必ず往生の利益を得たいと望むことを明かすのである。



『往生する行を修めて、往生の利益を得たいと望んだ』ということね。これが定善をしようとしたということにはならんね。まあ、日本語が解からん管理人さんには理解できないだろうけどさ。



>>観の成就を論ずる事、衆生の根性の利鈍に依るべし。
>
>韋提希は定善を身業口業で行じて、自分の根性の利鈍を知った。


これも違うな。
「衆生の利鈍」については尊号真像銘文に

「夫根有利鈍者」といふは、それ衆生の根性に利鈍ありとなり。「利」といふはこころのとき人なり、「鈍」といふはこころのにぶき人なり。「教有漸頓」といふは、衆生の根性にしたがうて仏教に漸頓ありとなり。「漸」はやうやく仏道を修して、三祇・百大劫をへて仏に成るなり、「頓」はこの娑婆世界にしてこの身にてたちまちに仏に成ると申すなり。これすなはち仏心・真言・法華・華厳等のさとりをひらくなり。


結局ね、定善の成就を論ずるのは、定善が出来る人と出来ない人とに依るのだということだよ。

おかしいですね

もう一つの「七衆生の譬喩」
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-146.html

ここで管理人さんは

・一切衆生=一闡提

とご主張ですよね(万一違っていたら訂正してください)。そして当然ながら

・一切衆生⊃韋提希

ですから、管理人さんの論理では当エントリーのような

「韋提希は定善を身業口業で行じて、自分の根性の利鈍を知った。」

などという主張はそもそも成り立たないと思いますが。

「韋提希は定善を行じようともせず、自分の根性の利鈍を知るよしもない。」

こうなるはずでしょう――「一切衆生=一闡提 」という管理人さんの前提が正しいのであれば――。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。