スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

梯實圓氏の間違い 追加5

昨年の論議を振り返って、続き。

外道が好きなんだからどうしようもない人だが。







「九品を真実」と見て、実機の差別を認める梯實圓氏の間違いについては

以前、指摘したとおりですが、彼は「問答集」にもう一つ大きな間違いを

しています。

「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」というものです。



これについては六要鈔に以下のようにあります。

「『安楽集』に云わく、『大集経』の「月蔵分」を引きて言わく、
我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、
未だ一人として得る者あらじと。
当今は末法、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。乃至。

問う、起行・修道、簡別の言なし。浄土に亘るべし。何ぞ聖道に限らん。
答う、聖道の修行は戒・定・慧あり。これ自力を策む。浄土の得道は功を他力に帰す。
故に綽公の意は、深く聖道修入の方軌に達して、この釈を設くるなり。」

(問う、修善は浄土門にもあるのに、なぜ『行を起こし道を修せんに』の御文を
聖道に限るのか。答う聖道門は自力策励であり、
浄土門は阿弥陀仏に向かっての善であるから
道綽禅師はこの二つを分けられている)


「阿弥陀仏に向かう善は、聖道門の善とは違う」

これが六要の伝承であり、歴代の本願寺派勧学の見解でもあります。


それは御本典に「浄土の要門」と、

時機不相応な「聖道門」が分けて説かれているのだから当然のこと。


「これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行
  あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこ
  れ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。
  この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より
  正・助・雑の三行を出せり。」

「まことに知んぬ、聖道の諸教は、在世・正法のためにして、まつ
  たく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。」(化土巻)


「八万四千の法門はみな浄土の方便の善」ですから

「浄土の要門」⊃ 時機不相応な「聖道門」

なのですが

「浄土の要門」=時機不相応な「聖道門」
 
に、してしまいたい方々があるようです。

六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて

教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか?
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

おいおいおいおい、また論破されたjことを持ち出してくるんだね。


管理人さんの一方的完敗の記録
今回の件は、25番ね。

全く反論できない。みじめやな高森派。


1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。

32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。

33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。

地獄に行きたいのなら一人でいけばいいものを、人を巻き添えにしたがるのが、牧野や高森けという男達。
下衆も下衆、醜い奴らだ。


槙野Jrは小さい時には暴力的で周りの人から心配されていた。
親の前ではしっぽ振ってた?
親も高森一族や会員の前ではしっぽ振ってるんでしょ?
妻の後で腰はもう振ってない?

『観経』を読みましょう。

当エントリーでの管理人さんの主張は「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は違う」というものですが、『観経』にはこうあります。

「 かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。 」
(『観経』序分 発起序 散善顕行縁)

上記の御文が読めますか。

※梯實圓氏の説が如何に馬鹿げているか
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-145.html#cm

のコメントより再掲

管理人さんの主張:
・聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は異なる。阿弥陀仏に向かう善は、聖道門の善とは違う。
・聖道門に難化の三機が救われる法はない。
・「浄土の要門」において「難化の三機」に対して説かれた「善」は「定散二善」である。
・常没の衆生=難化の三機

私の主張:
・聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は、〈行〉は同じ。〈回心回向〉が異なる。 阿弥陀仏に向かう善も同様に、〈行〉は同じ。〈回心回向〉が異なる
・聖道門においては、浄土の要門に説かれる定散二善は、難化の三機をもふくむ常没の衆生を聖道門に導くための手立てとして説かれているとみなす(=元からの聖道門の機には不要である)。
・浄土真宗(※「浄土の要門」ではない)においては、浄土の要門に説かれる定散二善は、聖道門の機を浄土門に導くための手立てとして説かれているとみなす(=元からの浄土門の機には不要である)。
・常没の衆生⊃難化の三機

誤釈

管理人さんの挙げた『六要鈔』(六要鈔会本 巻第九)の一節について

「浄土の得道は功を他力に帰す」



「浄土門は阿弥陀仏に向かっての善である」

とされていますが、よく考えるとこれはちょっとおかしい。

何故ならば、「浄土門=阿弥陀仏に向かっての善」としてしまったら、浄土真宗の御法義たる他力念仏往生は「阿弥陀仏に向かっての善」ではないから、「浄土真宗は浄土門ではない」という、なんだかよくわからないことになってしまいますからね。そうじゃないでしょう。

要するに「功」というのは「戒・定・慧を成就し仏に成る」ということで、この「功」の主体――すごくあいまいな表現で恐縮なのですが――が、聖道門においては

行者
=衆生
=自力

であるところ、浄土門においては

行者
=法蔵菩薩(であった阿弥陀仏)
=他力(本願に誓われた利他力)

なのであって、衆生は浄土門にあっては自らの得道をこの阿弥陀仏の他力に帰すのであるよ、ということなのですね。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。