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「白道とは」と書かれてあっても「白路」ですか2

昨年の論議を振り返って。

これも決定的でした。
何の反論もありません。





さすが読み替えの上手な偽本願寺様ですね。

>「白道」とは、
>白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
>白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
>黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。

>ここは「白路」であって「白道」の説明ではありません。

「白道とは」と書かれてあっても「白路」ですか。

さすがに他流です。言う事ありません。
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丁寧に振り返りなさい

二河白道 譬喩段は観経の顕説
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-151.html#cm

二河白道2 獲信は二河の中、白道上のこと
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-152.html#cm

二河白道3 偽本願寺派の醜態
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-153.html#cm

丁寧に振り返りなさい(続き)

二河白道4 愚禿鈔は誤写?
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-154.html#cm

二河白道5 「白路」はどこに?
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-155.html#cm

「白道とは」と書かれてあっても「白路」ですか
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-156.html#cm

>これも決定的でした。
>何の反論もありません。

こちらのコメントに答えず一方的に自説を展開し続けたのは管理人さんの方ではありませんか。

「二河譬」の訳について

先に挙げた一連のエントリーを通しての管理人さんのご主張は

「二河譬の譬喩段は観経の顕説」
「『白道』の白は自力小善の路である」
「無常と罪悪に責め立てられて、自力の廻向発願心で白道を渡り」
「獲信は二河の中、白道上のこと」

というものでした(間違っていたら訂正してください)。

私はそれに基づいた「二河譬」の訳を示すように再三お願いしていたのですが、未だ示されないのはなぜなのでしょうか。

No title

おいおい、また嘘かよ。
それが親鸞会でいう善だということね。

以下のコメント参照


No title
管理人さんの理論なら

>「白道」とは、
>白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
>白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
>黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。

「白道とは」と書かれてあっても「黒悪道」ですね。


少しは国語を勉強してはどうですか?

2012-12-30(01:06) : 誤魔化し URL : 編集

No title
>全然根拠になってないんですが。
>他力と自力があれば「他力を念ぜよ」と言われるのは当然。

全然根拠になってないんですが。
自力があれると言われていないのですが。

どこに「自力白道」という言葉があるのですか?

2012-12-30(01:08) : 誤魔化し URL : 編集

No title

飛雲より引用


文法からも、学問的観点からも、どこから見ても曲がった解釈

古文の文法さえ知らない、学問とは縁遠い高森会長と親鸞会ですが、今回は文献学という学問的観点から話をしてみます。

古文献には、原本と写本とがあります。『教行信証』で言えば、親鸞聖人が直に書かれた原本と、その原本を別の人が書写した写本、その写本をまた別の人が書写した写本があります。ここで、原本と写本とは、完全に一致していれば全く問題はないのですが、往々にして、写本には誤字、誤写、省略、加筆があるものです。従って写本では親鸞聖人の御心と違った内容になっている箇所もあり得ます。『教行信証』でもそのようなところが実際にあります。
このようなことから、親鸞聖人の御著書で原本が残されている場合には、原本で確認する必要があります。幸いにも親鸞聖人の御著書は、原本が伝わっているものが大半です。ところが原本のない写本しか伝わっていない御著書もあります。それが『愚禿鈔』です。

この『愚禿鈔』で、他の御著書と異なる内容が記されていて、古来から議論の対象となっている箇所が1箇所あります。それが「白道」です。

「白道」について書かれた『教行信証』と比較してみると判りやすいです。

『教行信証』信巻

白道とは、白の言は黒に対するなり。
白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
道の言は路に対せるなり。
道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。
路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。

『愚禿鈔』

「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。

『愚禿鈔』における「白」の説明が『教行信証』とは明らかに異なっています。『愚禿鈔』の「白」の説明は、『教行信証』の「路」の説明と同じ内容です。
この事実を、真宗学を学んでいない文献学者が知ったならば、普通はこの『愚禿鈔』の写本は写し間違えられたものであると素直に理解するでしょう。
以下は想像ですが、『愚禿鈔』の写本には「路」と「道」の説明がないことから、原本には「道」と「路」の説明の部分が入っていたかもしれません。たとえば『教行信証』のお言葉をそのまま仮に入れて、以下のようになっていたかもしれません。

白とは、【すなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
道とは、すなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。
路とは、】すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

つまり、【】内の赤字部分を誤って省略して書き写した可能性も考えられます。

写本では、このようなことはよくあることで、それは自分で書写した経験があれば想像できると思います。
写本の場合はこういったことも想定しなければならないのですが、断章取義・曲解・捏造、何でもありの親鸞会にとっては、そんなことはお構いなしです。

最近親鸞会が、「白道」を信前の求道とする根拠を、この

白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

としています。

根本聖典である『教行信証』によらなければ、親鸞聖人の正しい教えは判らない

と高森会長は言いながらも、『教行信証』を無視するのですから、お粗末極まりないです。尤も、『教行信証』を読んでいませんから、『教行信証』に書かれてあるお言葉も知らないでしょうけど。

ただし断っておきますが、これはあくまで文献学からの可能性ですので、親鸞聖人が本当に

白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

と書かれたのかもしれません。『愚禿鈔』の原本がない状態では、どちらが正しいということを断定することはできません。

しかし、原本でもこのようになっていた場合でも、親鸞会の主張は間違いです。ここでは、「自力小善の路」とありますので、ここは「白路」であって「白道」の説明ではありません。その証拠に、『愚禿鈔』のこの後には、

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

とあります。『愚禿鈔』がすべて親鸞聖人の書かれたことに間違いないという前提でも、「白道」は「他力」なのです。

いずれにしても、「白道」は自力の意味ではありません。
どんなに頑張っても、高森邪義は邪義でしかありません。それで、

親鸞聖人がこのように仰っているんだ。それが間違いだと言うのか!!!

と都合のよいお言葉だけを取り上げて、喚き散らして議論を吹き飛ばすのが精一杯でしょう。
出してくる根拠の前後を隠し、他の御著書との整合性を無視して、親鸞聖人の意図など関係ない、自分の主張さえ大声で叫べば相手は黙って勝ちだ、と思っている集団には、今回の話も理解できないでしょう。

こんな体たらくですから、高森会長が、第三者の前で退会者と法論することなど、永久にありません。

No title

管理人さんの一方的完敗の記録


1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。

32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。

33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。
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