弥陀の本願まこと

Q なぜ「十方衆生を救う」と誓われた御本願で五逆と謗法が除かれているのですか?

A 御本願を信じたというのは
  「永遠に救われることのない、五逆と謗法の自己」と
「必ず救うと誓われた弥陀の本願」が両方真実であることを
知らされたことを言います。
本願を体験するのです。
両方が真実ですから、曲げようがありません。
どちらかを否定しようとするのを自力の心と言います。

「大慶喜心を与える」と本願に誓われているのに
「そんなことはない」と思うのも自力の心ですし
「煩悩が苦しみの根源」と思うのも自力の心です。
弥陀の本願を疑う心ですから疑情といいます。


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まことに宿善まかせ

「一音をもつて演説したまふに機に随ひて悟る」

空念仏でも遠生の結縁にはなるだろうから

悪に誇っているよりはよほどよいことだが

八万劫苦しみ続ける一大事が迫っているのに

のんきなことだ。

居眠り半分の聴聞に極まる人たちばかりで

火中突破の覚悟がない。

まことにあわれ。


「諸善をやめて念仏せよ」という教えは真宗には

無いが、そう聞こえるなら一心に称えればよかろうに

「御念仏がありがたい」というわりに

一生懸命称えるわけでもない。

財施が嫌いなら

明るい笑顔であいさつするとか無財の七施ができるところは

いくらでもある。

悪をやめよう善根積むよう心がけねばこの道は進めません。

宿善とは「信心決定するまでの善根」

これは学者さんたちも認めていること。

外道に向かうのは極重の大罪悪業で、助かりませんよ。





仏凡一体

水と油が混ざり合うことがあるんです。

混ざったままで離れない。

御慈悲を疑っていたころは

一生懸命かき混ぜて一緒にしようと計らって

どうやっても混ざらない。

力尽きた一念に不思議な願力で

泥凡夫が正定聚

ありがたい御念仏が身体中にあふれます。





正行に帰す

「雑行を捨てて正行に帰す」というのは

「諸善をするのをやめて五正行をせよ」ということではないし

「諸善をするのをやめて念仏を称えよ」

ということでもありません。

信行両座の諍論で行の座に座った人たちはそう解釈したのです。

信心為本を体得していれば

「自力を捨てて他力に帰せよ」ということであって

信心獲得せよというおすすめであることは明らか。

行に迷うのは心が暗い証拠です。

法論というのは

「法論」というのは、仏教徒の意見が対立した場合に

「どちらが正しい仏意か」ということを、お経を根拠にして

論議することです。

「外道も好き」という人たちは仏教徒ではありませんから

「法論」なんてはじめから成り立たないわけです。
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