二河白道  獲信の体験記

私たちが阿弥陀仏に救われて、極楽往生する相を譬喩で教えてくださったのが

有名な善導大師の「二河白道」。

譬喩段は、観無量寿経の顕説、弥陀の19願、方便願を説かれたもの

合法段は、その19願の教えに従って進んで、

生きている現在に弥陀の救いにあった体験を書かれています。


「人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ」といふは、

すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。 (合法段)



「すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふ」というのが信心決定、

弥陀の救いにあった体験を

「一念で自力を捨てて往生一定の身になった」と言われています。

「人、道の上を行いて」ですから白道の上です。

論難があるのは「白道に乗った瞬間」か「途中」かですね。

「白道に乗ったことが他力信心を獲たこと」という邪義についてですが。



譬喩段に

「決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに」の後の

「一心にただちに進んで道を念じて行けば、」を解釈されたのが

「人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ」ですから

白道に乗った瞬間に廻心したのではなく、一分二分行った途中です。




「白道は他力信心のみ。信前の弥陀の導きは含まない。

愚禿鈔は間違い」というのは救われた体験のない「学者」のたわごと。

白道は信前信後通した弥陀のお導きです。









(譬喩段)前略
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。

(合法段)
 次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。 〈西の岸〉といふは、すなはち極楽宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈無人空迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。

〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。

また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。略
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自分の知らない自分

一人っ子で育った娘が、友人から

「あなたはわがままね」と言われて

びっくりした、と言ってました。

「自分はすなおで、おりこうさん」と思っていた、とのこと。

成績もよく優等生でしたから、学校の先生からは

「よい子」と言われていましたし、

友人も多く明るい性格ですが、

親の目から見ても「ちょっとあまやかし過ぎたかな」と思うところは

ありました。

友人から「わがまま」と言われて、親としてよかったと思うのは

娘が自分で「自分にはわがままだと思われる部分がある」ということに

気づいて注意するようになったことです。

自分のことは自分が一番よく知っていると思いがちですが

人から教えてもらわないとわからない部分があります。

また外見はある程度、人から見てわかりますが

心で何を思っているかはわかりません。

自分で自分の心を見つめるのはなかなか難しいのです。

「自分のこと(心)は自分が一番よく知っている」というのは

大きな迷信の一つなんですね。

自分の知らない自分がいるということに気づけば

本当の幸せに一歩近づきます。

人の一生 2

「生きている者は必ず死ぬ」

この現実を、人間は直視することができません。

「自分が死ぬことぐらい知ってるよ」という声が聞こえて

きそうですが、

知っているのは他人の死であって「自分の死」では

ありません。

死んだことがないのですから、当たり前ですよね。



ところが、迷いの深い私たちは

「知っている」と思っているんです。




「死ぬなんて怖くもないし、みんな死ぬんだから

考えたって仕方ないじゃないか。

それより今を楽しく過ごそうじゃないか」

臭いものには蓋、です。


しかし、蓋してもにおいはときどき漏れてくる。

他人の死を見たり、聞いたりすると

自分の死の影がちらほらするので

忌み嫌います。

「なるべく楽しいこと」が蓋なんですが、

楽しいことはいつまでも続きませんから

蓋がときどき外れそうになって

寂しい心が見えてきます。

歓楽極まりて哀情多し


楽しいはずなのに寂しい心が入り混じる

なぜだろう?

まじめに自分の生を見つめるものならば

必ず通る道でしょう。



人の一生

「生あるものは必ず死に帰す」

生まれたら必ず死なねばならない。

人生で確実なことはこれだけです。



人の一生には、いろいろあります。

いい大学に入った。

いい会社に就職した。

結婚した。

子供ができた。

儲かった。

家を建てた。

etc.

そのうちに年とって行く。

長生きしてから死んでゆくのは幸福で

若死には不幸だから

こういう人生を平穏に歩んで

年老いてから死ぬのが幸福な人生だ。





いやいや、そう決めつけられると窮屈だ。

結婚しようがしまいが本人の勝手。

自分が満足していればそれでいい。

死ぬときはみんなひとりなんだから

孤独死しようが自殺しようが

本人が「それでいい」と思ったらそれが幸福なんだよ。




いろいろありますが

今晩死んでしまえばみんな夢

どう言い訳しようがそれが現実です。


しかし、人間はこれを認められない。

自分が死ぬとは思いたくない。

夢から覚めたくない。

「いや、まだ大丈夫」

「まだ大丈夫」というのは「いつかだめになる」とは知っているわけです。

そういう生活に不安が無くなる訳がない。

だから人生は苦なり、になるのは当然です。

人生の根本苦はどこにあるのか。

それを知るのが、本当に明るく生きる第一歩になります。







仏教の基礎

このブログは、インターネット上で、でたらめな真宗教義が平気で語られているのを

見ておれず、立ち上げたものです。

ほとんどはアンチS会関係のものでしたが、反論できなくなったせいか

最近は大した論難もなく、コピペ攻撃などのいやがらせもなくなりました。

検索をかけるとあいかわらずその関係のブログは出てきますが

大きな論点はなく、けんかに負けた子供がぐずっている感じです。

これ以降は、僧侶を含め一般の人のために仏教の基礎から少しづつお話しましょう。


葬儀で、僧侶が説教しても、何を言っているかわからない、

話している僧侶も自信なさげに10分程度話してそそくさと帰っていくのは

僧侶自身が教えをわかっていない、わかってない人の話を聞いている人は

わからないのは当然です。

一時は、年間3万人の人が自殺していたのが、2万人台になって

「自殺する人が少なくなった」という感覚は悲しいことです。

「人生は苦なり」は今も昔も変わらない。

その苦しみの元を断ち切って、

「人間に生まれてきてよかった」という喜びの身に

なれるというのが本当の仏教。

仏縁にふれる一助になればうれしいかぎりです。











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ikiruimiwositte

Author:ikiruimiwositte
浄土真宗の伝統教学を勉強しましょう。
御本典は何度も拝読しましょう。

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